昭和41年10月12日 朝の御理解
末永静行(№41-114-A-2)
信心の在り難さと言うものが段々分からせて頂くようになる。いわば、私共の心の中にしみじみと神様のお心が分かり、そのお心に添い奉ろうとする信心修行が心の底から頂かせもらえるという事、そのことが嬉しゅうなり、そのことが楽しゅうなる、そう言う信心が私は望ましいと思うんです。
今朝から、降り出しました、おしめりが、御祈念をさせて頂きながら、まあ、おしめりの音を聞いて、まあ、そんな事をしみじみと思う、何とはなしにお恵みの雨、だから、自由と申しますですね、お慈悲があれば、そういうような頂き方で頂けれるという事、それは、やはり、お野菜ならお野菜が、いわゆる、地にきれいにでけておる、それでこのしめりが、そのおしめりがおしめりをちょうど受けておる大地のように、そのお野菜のように、それをおしめりが大地に染み込んでいくと、そう言う感じですね。
神様にお恵みの雨がお恵の雨として感じられる、自由として、お慈悲の雨として感じられる、それこそ、しみじみとした在り難さと言うものが感じられる、そういう、しみじみとした有り難さと言うものが頂けれる状態というのはどう言う状態の時かと言うと、信心の修行が嬉しゅうなり、有り難うならせて頂けれるような心の状態の時。
私の若い時に頂いたお話しですけれどね、お道の新聞の記事をある時親先生が読んでくださった、それが、非常に私の印象に深く残っておる、若い先生が布教に出られた、ところがなかなか人が助からん、勿論人も集まってもこない、もう大変な修行の中に毎日を過ごしておられる、その状態を見られたその先生の兄さんに当たる方が、お家は相当なお百姓をしておられる、それで、ある時その教会に尋ねてみえられてから、修行の様子というがもう見るに見かねる状態なもんですから、一応、金光様のご信心を止めれとは言わんけれども、田舎のほうへ引き上げてこないかと、お前のために家も建ててやろう、土地もこうてやろうと、そして、ご縁のあった神様の信心を進めていけばよかろうと、こう言う面倒の中にこんな苦労をしなくても、という訳なんですね。
例えばその若い先生が兄さんに向かってその時に言われた言葉がですね、兄さん、要約この頃、信心の有り難さが分かってきたと、兄さん確かご覧になりゃ、本当に難儀な事であろうように思われるけれども、私はこの頃、本当にしみじみ思う事はもう少し修行ばしてみたい、もう少し苦労ばしてみたい、そう言う心で一杯ですというて、その、まあ、言われたという事なんです、それを聞かれて兄さんが、いや、まあ、そのぐらいに一生懸命思うておるなら、私がなんといおうかというて帰られたと言う話しでした。ね。
私達の信心がこうして修行させて頂いておるけれどもが、ね、本当にそのもうちっち、もう少しぐらい修行ばしてみたい、ね、もう少しぐらい苦労ばしてみたいと、というのじゃなくて、この修行がいつまで続くじゃじゃろうかと、出来るならもっと楽な修行に切り替えて行かなきゃもう体がもてんと例えば言うような時にはです、決して私は神様のお恵みをお恵みとして受ける事はできない、ね、また降ると、いうような雨だという事になる、しみじみ私共が例えば今朝のおしめりの音を聞きならが思う。ね。本当に自由と言う感じ、お恵みの雨、お慈悲の雨だというふうに感じる。
お互いに信心がですね、しみじみ有り難いと言うおかげを頂くという事は自分の思うようになって行く事が信心の有り難いのではなくて、修行が有り難い、もう少し修行ばしてみたいといったような心から生まれてくる有り難さ、そこにまた現れてくるところのおかげであって初めてしみじみ有り難いのです、皆さんの信心の内容を思うてご覧になり、ね、もう少し修行ばしてみたい、現在の修行が少しおくになる、欠けておらんだろうか。ね。
現在の修行がもうとにかくつい一杯じゃなかろうか、もう少し、これは私自身も思うことですけれども、もう少し修行ばしてみたいといったような信心が成されたら信心そのものも楽しいでしょうけれども、やはり、自由を自由として受けられる、ね、お恵みをお恵みとして受けられる、それこそ、大地に染みとおって行くそのおしめりのように、私共の心の底までお恵みの底を深くお恵みをお恵みを深く感じることが出来る、そこに信心の喜びがあると思うんです。
本当にもう少し修行ばしてみたい、そう言うような心を養う行かなければいけないと思うですね。
どうぞ。